MENU

モルトショベルブルワリー(MALT SHOVEL BREWERY)

目次

モルトショベルブルワリー(MALT SHOVEL BREWERY)概要

MALT SHOVEL BREWERY sited from https://www.jamessquire.com.au/our-brewery/

モルトショベルブルワリーはオーストラリア、ニューサウスウェールズ州)、シドニー中心地から程近い位置、キャンパーダウン(Camperdown)に存在するブルワリー。
創設者のチャールズ(チャック)ハーン博士(Dr. Charles “Chuck” Hahn)主導のもとライオン(Lion)の傘下として運営されている。
チャック博士は科学工学の博士号を持ちながらビール業界に長年携わった人物で、醸造から経営に至るまで多くの経験とノウハウを持つ。

モルトショベルブルワリーはもともと同じ場所に存在したハーンブルワリー(Hahn Brewery)の跡地で始められた。ハーンブルワリーもまた、同じくチャック博士によって立ち上げられたのだが、こちらもライオンネイサンによって吸収され、1993年には醸造拠点が別の場所へ移されてしまっていた。
1998年、同じ土地へ戻ってきたチャック博士が再度ブルワリーを立ち上げ今に至っている。
モルトショベルブルワリーはライオンネイサンの傘下でありつつもマイクロブルワリーという位置付けをとっており、小さな工場で作られ、少数ながらもクオリティの高いビールの製造していることを打ち出している。

事実、そのイメージはチャック博士が指揮をとっている事も手伝い定着している。
小さなブルワリー、つまりマイクロブルワリーにて醸造されるビールはよく、ブティックビール等と呼ばれるが、同ブルワリーでは「クラフトブルワリー」による「クラフトビール」等と表現されている。
こちら、モルトショベルブルワリーにて製造されるブランドはすべてジェームズスクワイア(James Squire)にて統一されている。
過去にラベルの変更や様々な商品開発を経ながら2011年に主要商品に位置付けられるものを見直し、発表。装いも新たに登場したのだった。

  • ジェームズスクワイア ナインテールズ アンバーエール
    (James Squire Nine Tales Amber Ale)
  • ジェームズスクワイア ザ・チャンサー ゴールデンエール
    (James Squire The Chancer Golden Ale)
  • ジェームズスクワイア フォーワイブズ ピルスナー
    (James Squire Four Wives Pilsener)
  • ジェームズスクワイア ストウアウェイ インディアペールエール
    (James Squire Stowaway India Pale Ale)
  • ジェームズスクワイア ジャック・オブ・スペイズ ポーター
    (James Squire Jack of Spades Porter)
  • ジェームズスクワイア サンダウン ラガー
    (James Squire Sundown Lager)

これらがフラッグシップ製品と位置付けられるのだが、ユニークなのはその商品名である。
他のブルワリーが「ブランド名+ビールの種類」を商品名とすることが多いの、こちらのブルワリーでは各ビールに「ナインテール」や「チャンサーゴールデン」等、そのビールをイメージしたユニークな名前がつけられていることである。
いずれのビールも非常に丁寧に醸造されており味わいの評価も極めて高く、オーストラリア国内のみならず世界大会においても成績を数々修めている。ブルワリーのあるシドニー周辺やニューサウスウェールズ州では絶大な人気を誇り、また、オーストラリア国内でも知名度、人気共に確実に上り続けている。
上記主要商品以外にも限定商品が時々販売されるとこもある。

モルトショベルブルワリーの歴史

モルトショベルブルワリーの歴史はとても浅い。前述の通り1998年にチャールズ(チャック)ハーン博士によってもとハーンブルワリーがあった場所に別ブルワリーを始めた事に始まっている。 それ以来安定した運営を続け、醸造されるビールの量も増えている。

モルトショベルブルワリーとジェームズスクワイアという名前の由来について

モルトショベルブルワリーやそこで生産されるビールブランド、ジェームズスクワイアの話をすれば必ず語られる事柄がそれら名前の由来についてである。
実はジェームズスクワイアという名称はある人物の名前であり、モルトショベルブルワリーというのはその人物によって立ち上げられた有名な酒場、ザ・モルティングショベル(The Malting Shovel)に由来している。
ジェームズはオーストラリア国内において初めてホップの栽培に成功した人物であり、また、商業的なビールの醸造も彼が初めて行っている。
そのためオーストラリアのビールの歴史について調べていくと彼や、その酒場の名前を目にすることが少なくない。
ジェームズスクワイアは1754年イギリスで生まれている。以下彼の歴史を簡単に紹介しよう。

ジェームズ スクワイア(James Squire)の歴史

1754年 イギリス、ロンドンそば、キングストン・アポン・テムズで生まれる。

1774年
ジェームス20歳の時、高速道路での強盗で逮捕。

1776年
幼馴染のマーサ・クイントン(Martha Quinton)と結婚し、3人の子供を授かる。
同時に高速道路での強盗者や密輸業者のためのホテルを経営し生計を立てていた。(74年の高速道路の反省が全くないな・・・)

1784年
隣家の庭から5羽の鶏と4羽の雄鶏を盗み、再度、地元警察よって逮捕される。

1785年4月
英国政府はジェームズを移送囚プログラムに加えることにした。彼はロンドンそばの刑務所で2年の刑を宣告され、その後オーストラリア行きの植民船団の第一艦隊に加えられた。オーストラリア島流しの刑を受けたのである。

1787年4月
オーストラリアシドニーへ向けて出発

1788年
シドニーに到着してすぐ、勤務先となる病院の売店から「医薬品」を盗んだ罪により逮捕。盗んだものは1ポンドのコショウとハーブだった。このハーブは妊娠中のガールフレンドのためのものだと主張した。後にオーストラリア到着後からビールを醸造していたことを明かした。

1789年
ジェームズのビールはイギリス軍人の間ですでに人気を獲得していたし、彼の魅力的な人柄もあり上記犯罪の罪は鞭(ムチ)打ち300回と5ポンドの罰金との温情が与えられた。
そして実際の刑はムチ打ち150回へと減刑された。ビールの効果があったのだと考えられている。
*ムチ打ち150回の刑はモルトショベルブルワリーのビール製品「ジェームズスクワイア ワンフィフティラッシュ ペールエール」にて採用された。

1791年
オーストラリアで新たな女性、エリザベスメイソン(Elizabeth Mason)との関係を築き、7人の子供を授かる。
しかし同時に3人の愛人がおり、のちに彼は4人の妻(4 wives)を持つと形容された。

1795年7月
すでに自由の身となっていたジェームズは30エーカーの土地を与えられた。この頃すでに近くには多くの満期出獄者がおり、また彼らも土地を与えられていた。しかし彼らが自分たちの土地の所有を主張しないことをいいことに、ジェームズはそれらが自分の土地だと宣言、多くのエリアを獲得していった。1806年までにジェームズは1000エーカーの土地を所有、そしてそれらの土地を利用しオーストラリアで最初のホップを栽培、さらに美味しいビールに磨きをかけていったのである。

1805年
ジェームズがホップの栽培を始めたのは1805年、これがオーストラリア国内で初めてのホップの生産となった。
翌年、彼は2本のホップのつるを持参して政府邸を訪れた。当時のキング総督はその味と品質に非常に感銘を受け、政府から「スクワイア氏に牛を授けるように」命じた。

1806年
彼の醸造所がシドニー中心地から北西約10キロの場所、パラマタ川沿い、キッシングポイント(Kissing Point)というところに建てられた。
過去の犯罪歴からは驚くことに、この頃のジェームズは地区巡査(警察のような立場)となっていた。そして貧しい人にお金を貸したり、慈善家としての活動を始めていた。

1820年
ジェームズは彼がこの30年間ビール醸造を行っていると宣言した。ニューサウスウェールズ州の調査においてこれが認められ、オーストラリアでホップを使ったビール醸造の最初の証拠となった。もちろんオーストラリアにおける初の商業用醸造家としても認められた。

1822年
この年ジェームズは67歳で亡くなった。彼の死は入植地で史上最大の葬儀で送られ、かつて法の反対側からキャリアをスタートさせた男にとってはなかなか立派なことだと称えられた。
彼はシドニーのデヴォンシャー・ストリート墓地(Sydney’s Devonshire Street Cemetery)に埋葬されました*。しかし、彼のキッシング・ポイントの地所近くにあるパラマタのセント・ジョンズ墓地には、彼が楽しんでいたであろうシンプルな碑文があります「ここに埋葬されたいと願う者は、スクワイアのビールを飲むがよい」と。

*デヴォンシャー・ストリート墓地はシドニーのセントラル駅の場所に存在したが、この墓地は1867年に閉鎖された。

目次