カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニー (Kalgoorlie Brewing and Ice Company)

カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニーKalgoorlie Brewing and Ice Company

Kalgoorlie Brewing and Ice Company(カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニー)概要

カルグーリブルーイングアンドアイスカンパニー


Kalgoorlie Brewing and Ice Company(カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニー)は1896年から1943年までWestern Australia(西オーストラリア州)のKalgoorlie(カルグーリー)存在し、オーストラリアビール界の歴史において非常に大きな影響、役割を果たしたビールメーカー。
1943年スワンブルワリーによって買収さたことをきっかけに姿を消していった。
同ブルワリーが製造したHannan's Lager(ハナンズ ラガー ※1)は伝説として今でも語り継がれている。

※1:カルグーリーに貢献した伝説的人物「ハナン」にちなんでいる。詳しくは下【参考3】を参照下さい。

オーストラリア地図

西オーストラリア州の州都、Perth(パース)から東へ約600kmの位置にある都市カルグーリー。
カルグーリーのPorter St(ポーターストリート)沿い、地元では"Big K"(ビッグ ケイ)の愛称で知られる醸造所は19世紀、ゴールドフィールズ・エスペランス地域 ※2 に於いて最後まで存在した醸造所である。

※2:ゴールドフィールズ・エスペランス地域、金鉱地については下【参考1】を参照下さい。

 

カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニーは1896年2月24日に資本金12,000ポンド ※3 で設立され初代社長にRobert McKenzie(ロバート マッケンジー)が、共同立ち上げの役員としてJames Hurtle Cummins(ジェームス ハートル カミンズ)が就任した。

※3:諸説あるが現在の金額に換算すると1ポンド2万円~2.5万円ほどと考えられる

ジェネラル・マネージャー兼、最高醸造責任者にはJ.H.Shickel(J.H.シッケル)がアサインされた。
シッケルはドイス出身の醸造家で、当時既に南オーストラリア州にてCaledonian Brewery(カレドニアン ブルワリー)を経営する経営者でもあった。

カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニーは西オーストラリア州の金鉱地 ※2 にて2番目に立ち上げられた醸造所で、立ち上げられたその年には既にビールの提供を開始していた。
1897年6月、Shickel(シッケル)が肺炎で亡くなるとWilliam Elliott(ウィリアム エリオット)がその座を引き継ぎその後1900年1月にはAlfred Deacon(アルフレッド ディーコン)が任命を受け醸造責任者へと就任した。
Alfred(アルフレッド)はその後40年以上その座を務めることとなった。

一方、初代の役員であったCummins(カミンズ)は1904年に社長に就任すると同じくカルグーリに存在したLion Brewery(ライオンブルワリー) ※4 を1912年に買収すると、1918年にはLangsford Brewery(ラングスフォード ブルワリー))を、1919年にはUnion Brewery(ユニオンブルワリー)を、1920年にはBoulder City Brewery(ビルダー シティー ブルワリー)を、と次々にビールメーカーを買収し着実に勢力を拡大。
1924年になると西オーストラリア州の金鉱地に存在した全てのビールメーカーを買収、巨大な企業へと変貌を遂げていった。

※4:ライオンネイサンスワンブルワリーの歴史の中で出てくる「ライオンブルワリー」とは異なる。


1928年、その頃弁護士として働いていたJames Hurtle Cummins(ジェームス ハートル カミンズ)の娘、Alice Mary Cummins(アリス メアリー カミンズ)が経理関係を主とした仕事をするためカルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニーに参加するとその後すぐに仕事の領域を広めあらゆる知識を習得していった。
会社経営に関わることだけでなく、醸造方法、エンジニアリングスキル、アルコール飲料の保存からまたマーケティング関わるまでまたたく間にマスターていったのだった。
もともと能力のあったAlice(アリス)は会社運営を更に強固なものへするために舵を切る。

1929年にパースから東へ250km、カルグーリからは西へ350kmに位置するwheatbelt(ウィートベルト)地域、Merredin(メレディン) ※5 という都市に第二ビール工場を立ち上げ自身を最高醸造責任者へ任命した。
またビールの醸造方法や味わいにも強いこだわりを見せ始めた彼女は父親に対し、当時主流だった英国スタイルの製法からドイツスタイルで上面発酵のラガータイプにするべきだと訴えたりもした。
※5:上の地図1や下の地図2を参考下さい。


1936年3月19日、James Hurtle Cummins(ジェームス ハートル カミンズ)が急性腹膜炎で無くなると娘アリスはそのまま社長へと就任、同時に父親の株式を引き継ぎ、筆頭株主へとなった。

この当時オーストラリアのビールシーンは混沌としており、やはり多くのビール会社がどんどん立ち上がりやがては彼女を脅かす存在ともなっていった。
それでもめげること無くアリスは増資、新工場の立ち上げと攻めの経営を展開していった。
また販売チャネルを拡大するべく多くのホテルを買収 ※6 、提携することによりカルグーリはもとよりMerredin、Moorine Rock、Sandstone、Boyanup、Tammin、Yellowdine、Wagin、Meckeringとよばれる場所にまで勢力を拡大。
(下、参考1の地図2に示す、ゴールドフィールズ・エスペランス、ウィートベルトの大部分となる。)
※6:【参考2】を参照下さい

さらに1937年、今では伝説と言われるHannan's Lager(ハナンズラガー)が1937年9月の販売後まもなく同地域で爆発的人気を獲得したことでカルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニーの地位は不動のものとなった。
1940年代になると同じく西オーストラリア州を代表するSwan Brewery(スワンブルワリー)に幾度と無く買収をしかけられるがそのたびに戦い、打ち勝ち自らの会社を守りぬいていった。

そんなアリスも1943年6月27日にに心臓発作で亡くなってしまった。
同社を引き継いだ経営陣達は1945年同社の株式83%を20万ポンドでスワンブルワリーへ売却することで合意。ブルワリーはスワンブルワリーによって買収されてしまった。
売却後カルグーリーアンドアイスカンパニーのポリシーは基本的に踏襲されたが経営陣はスワンブルワリーの人間に取って代わった。
スワンブルワリーは1981年9月5日、オーストラリアの伝説的ビジネスマンAlan Bond(アラン・ボンド)率いるBond Corporation(ボンド・コーポレーション)によって買収。
当時カルグーリとMerredin(メレディン)に醸造所は2つ存在したがカルグーリの工場は買収の2年後に閉鎖されてしまった。
カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニーのビールはその後もなんとか細々と醸造が続けれていたがスワンブルワリーが大手Lion Nathan(ライオンネイサン)に給されると次第に生産量が減少。
ついには完全にその生産を中止、地球上から姿を消したのである。
無念。




カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニーのビール製品

過去本ブルワリーで生産販売されたビールは以下のとおり。

■Hannan's Lager(ハナンズラガー)
■Kalgoorlie Stout(カルグーリースタウト)
■K Prize Ale(K プライズエール)
■K Extra Stout(K エクストラスタウト)
■Westland Lager(ウエストランド ラガー)
■King Lager(キングラガー)
■Kalgoorlie Bitter(カルグーリー ビター)
■Oatmeal Stout'(オートミールスタウト)



 

【参考1:西オーストラリアの9リージョンに関して

■参考1:西オーストラリアの9リージョンに関して
ゴールドフィールズ・エスペランス地域
金鉱地

西オーストラリア州 地図

西オーストラリアの地域呼称に関しては西オーストラリア州ガバメントが定める分類が広く用いられる。州都パース周辺地域を除くエリアを9つに分解している。(パースエリアを含めば正しくは10のエリアとなるが一般的には「9つ」と表現されている。)
各エリアは以下のとおり

■Kimberley(キンバリー地域)
■Pilbara(ピルバラ地域)
■Gascoyne(ガスコイン地域)
■Mid West(中西部地域)(ミッドウェスト地域)
■Goldfields-Esperance(ゴールドフィールズ・エスペランス地域)
■Wheatbelt(ウィートベルト地域)
■Peel(ピール地域)
■South West(南西部地域)(サウスウェスト地域)
■Great Southern(グレーとサザン地域)

ゴールドフィールズ・エスペランス地域はゴールドフィールズ(Goldfields(金鉱地))の名前が示す通り鉱業、とりわけ金鉱業が盛んでありカルグーリーを中心とする本地域は1890年代からオーストラリアゴールドラッシュのいち地域として大きく栄えた。
その為人口も膨れ上がり、結果ビール醸造所も多数存在していた。



【参考2:オーストラリアのパブに「HOTEL」と名前が多くつく理由に関して

■参考2:オーストラリアのパブに「HOTEL」と名前が多くつく理由に関して
州によって年代に多少のばらつきはあるもののオーストラリア国内では1916年頃からパブでの酒類提供は夕方6時までしか認められていなかった。
その為夕方5時に仕事を終えるた労働者たちは急いでパブへおもむき約一時間急いでビールを胃袋に流し込んでいた。
ただしホテルだけは例外で、ホテルに併設されるパブでは宿泊客に対して何時までもアルコールの提供が認められていた。
そのため多くのパブがその名前にHOTELをつけ、ホテルとして営業形態を変更。
実際に客は宿泊させないまでもチェックインをさせ宿泊客として取り扱いアルコールをいつまでも提供するという方法をとっていた。
ちなみにこの名残は現在までも続き多くのパブが「ホテル○◯」や「☓☓ホテル」という名前で運営を続けている。

ちなみに18時までしか酒類を提供出来ないのは法律ではなく自主ルールに基づくものである。第1次世界大戦中に贅沢を控える目的や、モラル向上の一環から始まり全国へと広まっていった。
この自主規制は1960年代後半には撤廃された。(タスマニア州だけはやや早く1937年にはこのルールを撤廃した。)




【参考3:カルグーリーの偉人 パディ・ハナン】

Patrick Hannan(パトリックハナン)。
Paddy Hannan(パディーハナン)の愛称で知られる。
1843年アイルランド生まれ。

20歳でオーストラリアに渡り各地を回った後1892年にカルグーリーへ到着。
1893年にカルグーリー周辺の金鉱を掘り当てカルグーリや周辺の街の発展に大きく貢献。
1925年に亡くなる。
彼の偉大な功績にちなんでカルグーリでは「ハナンストリート」や「ハナンホテル」を始めハナンのなを冠したアイコンが多く存在する。
カルグーリーブルーイングアンドアイスカンパニーのベストセラー「ハナンズラガー」もまた彼の何ちなんで名付けられた。

パトリックハナン

引用:http://www.kalgoorlietourism.com/paddy-hannan