オーストラリアビールの歴史

オーストラリアビールの歴史the history of Australian beer

オーストラリアビールの歴史とは

オーストラリアビールの歴史はオーストラリアの歴史そのものと言ってよい。

1700年代の後半、70年頃、イギリスがジェームズ・クックを船長(いわゆる「キャプテン・クック」)とする探検隊をオーストラリアに派遣していた時、彼は既にビールを保存のきく飲料水(の代わり)として利用するため、一緒に携帯していた。また大量の材料を持ち込み船上でも醸造していた。

飲み水が腐ってしまってもビールなら飲めたというわけだ。船上での醸造はとても重宝された。特に、水がいたみはじめた時など、醸造によって腐り始めた匂いなどを軽減することができた。もちろんこの時代のビールは現在のそれとは程遠い質ではあったが、実際に発酵という工程を経ていた。

その後1790年頃になるとオーストラリア大陸への流刑者の数も増えビールの需要もそれとともに増加していく事となる。

1770年代頃、当時のオーストラリアでは、ビールは今のように大量に消費されていたわけではなく、主にラム酒が飲まれていた。 ラム酒は少量では通貨としての利用があった程浸透していた。

もともと流刑者が多かったオーストラリアで大量に消費されるラム酒。次第に酔っぱらった者たちの問題が浮き上がってきた。人々は酒をのみ騒ぎ続けた。さらには子供達でさえ酒を飲んだ。 酔っぱらいは悪とされるようになった。

そこで、ビールがラム酒に代わって注目されるようになった。ビールはアルコール量が少なく、より健康で安全だと言われその後、にわかに消費量を増やしていくこととなる。同時にラム酒をはじめとする蒸留酒の消費量は減っていった。

現在のオーストラリアで主に生産されるビールの種類はラガーだか、生産が始まった1800年代当初は上面発酵で短期に熟成可能だったエールが主に飲まれおり、ラガーが造られるようになったのは1885年になってのことだという。(エール、ラガーの違いについては「ビールの種類」を参照下さい)

また、初期に造られていたビールは、当時のオーストラリアでは栽培や輸入が難しかったためホップは使用されなかった。

1700年代の後半には独自でビールを作り始めるものが増えはじめた。

1800年代の初頭、政府による醸造所がパラマタに建てられたが、2年後に個人に売却される。この醸造所ははオーストラリアの歴史のなかで唯一の政府によって運営されたビール醸造所となった。 その後急速に醸造所の数は増え続け、1800年代の中頃にはその数は100を越えたと言われている。 当時の人口は75万人程だった。

オーストラリアにとって1700年代がビールの導入時期だとすれば、1800は爆発的に栄始めた時期となる。

1842年には、タスマニアにCascade Brewery(カスケードブルワリー)が誕生した。ここは現在でも創業を続ける最も古い醸造所となる。

1835年にはReschs(レシャス)シリーズで有名なTooth(トゥース)が創業を開始、1862年にはCoopers family(クーパーズファミリー)がアデレードで、1864年にはCarlton(カールトン)がメルボルンで、そしてFoster(フォスター)が1887年ニューヨークからやって来て初めてラガーの醸造を開始し、などなど現在でもオーストラリアのビール界に名を連ねる超巨大ブリュワリーが誕生した時期でもあった。

これと同時期にオーストラリアの各州に次々と新たな醸造所が建てられていった。

1800年代後の終わりにかけ醸造所は増減を繰り返しながらもその数を増やしていったのだか、景気の後退もあり、弱小な会社は消えていった。

1901年1月1日、オーストラリアが連邦制を導入するとともにお酒に関する法律も制定され、製造方法や販売方法などか厳しく取り締まられるようになった。事実、あまりの厳しさから多くの醸造所が、次々と閉鎖を余儀なくされ醸造所や数は劇的に減っていくこととなった。

なんとか閉鎖を逃れた会社は、閉鎖された醸造所を買収したり、また、大きくなった企業は、小さな会社を吸収合併していった。ほんの数年の間に各州に存在する醸造所(を経営する会社)はそれぞれ数社へと減っていった。

吸収合併はそれからも繰り返されていった。 現在オーストラリアに存在する大手ビール醸造所(メーカー)は一つの例外を除き、Lion Nathan(ライオンネイサン)Foster's group(フォスターズグループ)のどちらかにすべて買収されている。 唯一の例外はファミリー経営にて創業を開始したCoopers(クーパーズ)たけである。クーパーズはいまだファミリーにて経営が続けられている。